ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』

20世紀において「孤独と性」について、最も深く考えた思想家の一人にして作家でもあるジョルジュ・バタイユ
彼の作家としての代表作二篇が納められた本書は、必読に値する。
(「眼球譚」を読んだ人にも「目玉の話」はおすすめ。改訳され、読みやすくなると同時に、作品の醸す雰囲気はより濃厚なものとなっている)


訳者あとがきでも触れられている通り、ヘミングウェイを思わせるハードボイルドな文体で「神/信仰」が「性欲/孤独」に書き換えられていく夜を描いた『マダム・エドワルダ』。


玉子、金玉、目玉、尻に月……「球体」に対する性的嗜好と畏怖を描いた『目玉の話』。信者の孤独と無神論者の孤独のコントラストが、シモーヌ(あるいは「私」)とマルセル(あるいは「ドン・アミナド神父」)という登場人物達によって体現されていくさま、あるいはその描かれかたは圧巻だ。


『目玉の話』では、ラスト、バタイユその人が語り部として登場する。
そこで彼は、この物語を描くうえで無意識のうちに影響を受けていた、彼自身の実体験について解説を加えていくのだが、それがとても興味深い。


梅毒を病み、盲目と四肢の麻痺に苛まれていた父親が、医者に向けて放った「おいおい、せんせい、いったいいつまで俺の女房とやりまくってるんだよ!」という叫び。


「父のこの言葉は厳しい教育の成果を粉砕し、恐ろしい大笑いのなかで、私にけっして消えない義務感を負わせたのです。それは、無意識のうちに、自分の人生と思考のなかで、つねにこの言葉に匹敵するものを探さなければならないという義務感です。」


作家の使命感、思想家の使命感は、いつもどこかズレている気がしなくもないがw、それでも、彼は、常にこの「衝撃」を哲学によって乗り越えようと考えていたのだった。
本書は、その一つの成果でもあるのだ。


マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

今更ですが、宣伝

毎日更新を目指すぞ、ってことで

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先月の文学フリマで開催されたトークショーの模様がニコ動上にうpされています。
こういうミニコミ系サークルには島宇宙同士をコミットさせていくことも大事だけど、外部を取り込んでいこう、みたいな外向アピール的な意志が希薄だよなぁ。
ニコ生発の「マジレス!」さんあたりが、ニコニコ動画内でもっと訴求力を持つようになれば、このシーンは絶対にもっともっと賑わうし、次世代の論壇畑もより豊穣さを期待できるものになるはず。

真に思えたること、それは

不思議なのだ。


かつて、哲学者スピノザは「知性改善論」のなかで、次のように書いた。


「身体の観念は身体そのものではない。そして観念がその対象と異なったあるものであるからには、それはまた、それ自体、理解され得るあるものであろう。」


スピノザにとって「存在」とそれに対する「観念」とは、異なったものである。
彼は、この乖離の反復からなる増殖が、「認識」という行為の中で、ほとんど無限に行われていくであろうことを示唆している。
私がいる。私はこういう人間だ。こういう人間であるということは、そういうことだ。そういうことであるということは、ああいうことだ。


じゃあ、その「ああいうこと」とは、一体「どういうこと」なのか?


こうなってくると、もはや「問い」は「私」という存在から遠く離れたところで、物欲しげにこちらを見つめる他者でしかない。鬱陶しいことに、この他者は、それに応えようとする「私」を哂うかのように更に増殖し、遠くへと駆けていき、それなのに「私」の脳内に巣食う他者でありつづける。


だからスピノザは言う。
そんな「問い」を追い続けることなど無駄だ。やめてしまえ。


「確実性〈確知〉とは想念的本質そのもの以外の何ものでもないということ、言い換えれば形相的本質を感受する様式の中にこそ確実性そのものは存するということ」


つまり、どれほど「存在/観念/問い」の無限反復・無限増殖が可能であろうと、それらは全て「形相的本質を感受する様式の中に」収まりうるのだから、その一義性、まず「私がある」ことこそを大事にしなさいと。(それは突き詰めていくと「生命である」こと、にまで遡行していく発想に繋がるわけだけど、いまはそこまでは考えない)
そのことにたどり着くために、とてつもない思考の反復・増殖を経たものだなぁ、と感心すること然りだが、それでも、スピノザのこの言い分が、僕のなかで、それなりに価値を持っていることは確かだ。そして、僕は、その「価値」に苦しめられている。


例えば。
「存在の一義性」なんて、社会に埋め込まれた僕達の、恋愛発生・遂行プロセスにおいて、何の意味も成さない概念でしかない。どうしたって僕達は、恋愛のなかで「彼/彼女」という存在を手前勝手に脳内培養−増殖させていく。「彼/彼女」という「存在」を多角的に規定していく。その一つ一つ(一人一人?)を検討し、一喜一憂する。

最後、もはや思考をズブズブ化させてしまった僕達は、スピノザ的な「存在」の「感受」を行うかもしれない。
「とにかく彼女なのだ」という、まるで当然のことを思い出す、という形で「諦めてしまう」かもしれない。


不思議なのだ。
このことは、僕のなかでは、とてもダサいことで、(と書いたとき、実はもう、僕はスピノザを見ていない。僕の内面を覗き込んでいる。勝手に「ダサさ」を自己生成し、自己ツッコミを加えているに過ぎない)、本来なら絶対にしたくない「妥協」だ。
だけれど、僕だってまた「諦めて」きたのだ。
その人のことが好きと語るには、あまりにも大変な――単純な「一義性」(合理性と呼んでもいいかもしれない)には回収されえない、様々な社会的葛藤が、この「恋愛」というやつには概ね含まれているにも関わらずだ。


不思議なのだ。
この期に及んで、スピノザの思想に、より得心している自分が。

不思議なのだ。
その得心に、思っていたほどには「諦め」の響きが含まれていない、という事実が。

不思議なのだ。
僕自身の中にある「愛情」と「状況」の、当然ともいえる「折り合いの取れなさ」に対して、あろうことか不満を感じている自分自身が。


「形相的本質を感受する様式の中にこそ確実性そのものは存する」
「形相的本質を感受する様式の中にこそ確実性そのものは存する」
「形相的本質を感受する様式の中にこそ確実性そのものは存する」


僕の脳内で「存在」と「観念」が分裂し始める。
今度は、僕自身の「存在」と「観念」もまた、反復し、増殖していくのだ。
ステージを変えて続いていく言語・思考ゲーム。

まだまだ、エンディングは迎えられそうにない。

「文学フリマ」盛況でした!

と、いうわけで、前々回の記事にも書いた通り、
僕が執筆者として参画させていただいているproject「.review」が、24日に東京都大田区で開催された同人即売会文学フリマ」にブースを出展しました!
お陰様で大盛況。編集部発表によると250部強を売り上げたとのこと!
ご来場いただいた皆さん、本当にありがとうございました!


僕は距離の問題で会場に行くことが出来なかったんですが、当日、ツイッターのTLなんかを追ってると、次回こそは(今後も「.review」は「文学フリマ」に参加していく予定だそうです)、参加したいなぁ……と思ったり。
うん。参加できるよう、努力します!(何


project「.review」は、今後も続いていきます。
僕も参画し続けていくつもりです(現在、新しい論考についても構想中)。
皆様、ですます共々、本プロジェクトの応援よろしくお願いします!


ではでは、ですますですた!

ブログパーツでツイッター設置してみた

というわけで、サイドバーにツイッターの呟きが、最新8つまで表示されるようになりました。
どうでもいいですけど、なんか、ちゃんとしたブログっぽくて嬉しいww


けいおん!!』のさわちゃん先生役としてお馴染みの真田アサミさんも始めたツイッター
まだ登録されていない方も、一度試しに始めてみては?


ではでは、ですますですた。


今日読んだ漫画
『7と嘘吐きオンライン』http://opiumhero.web.fc2.com/pict_n_u_01.html
ツイッター漫画です!

明日「文学フリマ」にproject「.review」参加します!

と、いうわけで、どうもです、ですますです。

本日は宣伝です!


僕の参画させていただいているプロジェクト「.review」が、明日23日開催の同人イベント「文学フリマ10」にブースを出します!(ブースV-11) 頒布するのは、冊子『.review001』です☆
なんと300頁越えの超力作に仕上がった模様!


内容も、その頁数に見合った濃ゆさとなっております!

例えば……

TSUTAYA TOKYO ROPPONGIにて開催された社会学宮台真司×「.review」西田亮介の対談

・TBS 文化系トークラジオLifeプロデューサー長谷川裕氏インタビュー

・「現代日本の国家とコミュニティを問い直す」ジュンク堂池袋本店 西田亮介×社会学高原基彰

・『ココロザシ勝手に応援団』に突撃インタビュー(広告代理店で働く女性が企画している活動です。これも.reviewならではのコラボです)

といった企画や

・『プラネッツ』の編集でもおなじみ、中川大地さんの「ALTERNATIVE WAYS 東京スカイツリー論」

・様々な分野で執筆活動をされている、円堂都司昭さんの「テーマパークと浦安」

共立女子短期大学専任講師でファッションを専門に研究されている、渡辺明日香さんの「ストリートファッションの可能性」

・来週のTTRイベントのゲストでもある、茂木雅世さんの「『日本茶アーティスト』茂木雅世です」

などの論考


もちろん「.review」参画者の論考も満載です!
私、ですますの論考『果たしてウェブ・メディアの台頭は「スカウト雑誌」の未来を殺すのか』も掲載されます!



さらに当日、会場では「.review」西田亮介と、批評ユニット「前田塁」としても有名な『早稲田文学』プランナー市川真人氏のトークイベント「〈ミニコミ2.0〉〜メディアと流通の機能〜」が、サークル「KAI-YOU」さんの主催で開催されます!
要予約ですが、まだ残席あるようです。
詳しくは、下記リンク先よりをご確認ください!
「KAI-YOU」ホームページ



文学フリマ10」
会場:大田区産業プラザPiO
京浜急行本線 京急蒲田駅 徒歩 3分、JR京浜東北線 蒲田駅 徒歩13分)
時間:11:00〜終了16:00



「.review」以外にも、ブースがお隣の「KAI-YOU」さん(V-12)、ニコニコ生放送発の批評系サークル「マジレス!製作委員会」(V-05)、佐々木敦氏が主宰する「批評家養成ギブス」より参戦「ギブス2」さん(T-18)、ノンジャンル・ハードコア・インディペンデント批評「アラザル」(T-01)などなど、面白いブースが盛り沢山!
もちろん、創作系サークルのブースも見逃せません!


お時間の取れる方は、是非「文学フリマ10」へ!



ではでは、ですますですた!

けっこうアツい「青春ドラマ」としての『けいおん!!』

今期は何気にアニメが充実している。毎日、観るものが多くて録画するのもシンドイぜ! などと、およそ真っ当な人間とは思えない悩みを抱えています。どうも、ですますです。


皆さんは『けいおん!!』観てますか?

昨年、京都アニメーション(通称、京アニ)によって製作された『けいおん!』。本作は、その第二期にあたります。一期の段階では、女子高生がバンドを組んで(タイトルは「軽音」を平仮名化したもの)、毎日気楽にワイワイやる、といういわゆる「空気系/日常系」の作品として評価されていました。他方、「バンドもの」としても注目され、結果、登場キャラクター達に「萌え」たファン達が、そのキャラクターの使っていたギターやベースのモデルを買っていく、という現象が日本中で発生。内因的にも外因的にも話題を呼びました。



そんな、基本的に「萌え」の系譜で語られがちな一期と比べて、第二期の内容はかなりステロタイプな「青春ドラマ」となっています。

というのも、メインキャラクター(軽音楽部の部員)五人のうち、四人=平沢唯(憂に甘える唯かわいい)、田井中律(俺の愛人。愛称:りっちゃん)、秋山澪(しましまパンツの澪かわいい)、琴吹紬俺の嫁。愛称:ムギちゃん)は高校三年生。そろそろ真剣に将来のことを考えなきゃいけない時期です。更に、このままじゃ残りの一人=中野梓(ぺろぺろ 愛称:あずにゃん)は、来年以降、たった一人で軽音楽部を存続させていかなければなりません。いや、そもそも学校側に部として認められるためには部員が四人必要なので、このままじゃ、軽音学部自体、廃部となってしまうわけです。

本来ならば、彼女たちは、新入部員獲得に全力を賭すべき状況に置かれています。

しかし、第七話目が放映された現時点で、彼女達は未だ五人で活動している。

しかも、本人達に焦りはなく、今後もこの五人でやれるところまでやっていきたい様子です。



とはいえ、この状況は、そこまで意外なことでもありません。

むしろ、そうでなければ、この作品(そして彼女達/彼女達のバンド=放課ティータイム)はただの「代替可能な〈萌え〉」というレベルで読み込まれてしまいます。その「読み込み」は、この作品の志向している(であろう)場所から、遠くかけ離れた地点に、視聴者を導いてしまいます。

では、『けいおん!!』(あるいは「けいおんシリーズ」)の志向する地点とはどこなのか?

推測するに、それは、ずばり「目指せ! 武道館!」です。

一期では、あくまで「女子高生の軽いノリ」として、キャラクター達の口から発せられていたこの冗談。
それが (1)「外部」の獲得/描写 (2)キャラクター達による相互的レイヤー(層)「乗り越え」 を経ることで、はっきり「目標化」してきているのです。



少しだけ詳しく見ていきます。

(1)に関しては、一期のDVD7巻に収録されていた未公開話「ライブハウス!」がきっかけとなっています。この回において、放課後ティータイムは初めてライブハウスという「外部」で演奏をすることになる。
そこで彼女達は、本気でプロを目指す「他者」と出会い、放課後ティータイムの活動を見直し始めます。「このままでいいのか」といった戸惑いが描かれるわけです。そんな「戸惑い」に喚起されたある種の「決意」のようなものが、その後、二期において度々語られていくことになります。

また、最新話(第七話「お茶会!」)は「外部」を描写する回でした。ここでは、校内ではあるものの「澪ファンクラブ」という可視化された他者に向けてライブを行います。実は、これってシリーズ通して初めてのことなんですよね。いわゆる「モブキャラ」の集合が丹念に描かれたことって、いままで一回もない。

こういった「外部」の獲得/描写は、リアルなバンド活動を描く上で必須です。特にライブとは、その場に「生きる(LIVE)」全てを包み込む行為、バンド−客の「生」を交じ合わせていく行為なわけですから。

内輪ノリばかり重視していたのでは、バンドとして、ただの「学芸祭レベル」で終わってしまう。逆接的に言えば、そこを回避する意志が作品から見えてきたことで『けいおん!!』は単なる「空気系/日常系」からの脱却を果たしたといえます。



(2)もまた、とても重要な視点です。

「代替不可能な〈物語〉」としての放課後ティータイムを成立させるためにも、キャラクター達は、それぞれ自分と他メンバーの布置されているレイヤーという「隔たり」を乗り越えていかなければならない。つまり、結束の強化、相互理解の強化、が必要となります。

一番わかりやすいところでは第一話、第二話で描かれた「梓と他メンバーの学年差」というレイヤー。二話目に於いては、ムギに焦点をズラして「富裕層と一般層」というレイヤーで眺めることも出来ます。
第三話では、律が自らのバンド内での立ち位置について悩み、乗り越える。彼女が、四話目にして、ようやく他のメンバーと同じ「ノリ」に飛び込んでいく様は、非常に示唆的です。
また、第四話では、終盤の唯のナレーションも聞き逃せません。ここにきて唯は『けいおん!!』の志向するところを、はっきり明言してみせました。



この二つの要素をしっかりと消化していくことで、放課後ティータイムは、その輪郭にはっきり「物語」を帯びはじめています(他方では、目に見える演奏シーンの少なさが批判されがちですが)。いまや『けいおん!!』は「青春ドラマ」というラベルを獲得したのです。
そして、この「青春」のイメージは、ここまで観てきた視聴者達のなかで、自然と「武道館」へ続いていくでしょう。


ちなみに余談ですが、このシリーズでは、OPに「日常系」の映像が採用されているのに対して、EDではいわゆる「PVっぽい」映像を採用しています。

「PV」を単純に「プロのアーティスト」のメタファーだと仮定するならば、この30分間のアニメが、そもそも「構造」としてOP(日常)→本編(過程)→ED(バンドとしての成功)という超明確な「物語」をなぞっていることがわかります。まあ、これは、個人的な解釈に過ぎませんが。

今後、このシリーズがどう転がっていくかは観てのお楽しみ、です。

なにはともあれ、いま、『けいおん!!』がアツいことは確かです。

「なんとなくファンのノリについていけない」とか「メジャーすぎて観る気がしない」とか思っている人も、是非一度、観てみてください。


ではでは、ですますですた。


けいおん! 7 (初回限定生産) [Blu-ray]

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この曲、いいよ!