くるり『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』噺

文芸評論家の上野昂志は小説家筒井康隆について次のように論じている。

「たとえば、大藪春彦の場合、一貫したモチーフがある。それを、わたしは仮に「戦争」と呼んでおいたけれど、(略)とにかく、物語はそれを軸にして形成されている。(略)
大衆小説は、大衆が生活現実のなかで抱く貧しい夢や妄想を、その根のところで共通するといったところがあるが、個々の作家のモチーフも、もともとそこに胚胎したものだといえるだろう。(略)その点で、ある「深さ」に支えられているといえるだろう。
ところが筒井康隆の場合は違うのだ。(略)筒井康隆以前のほとんどの大衆小説が、生活現実のなかで孕まれ、そのなかで消えていくか、犯罪として突出するかといった不定形な夢に支えられ、そこから発しているのに対して(略)彼の小説は、むしろ徹底して表面的なのだ。」

くるりという存在は、上野の語る意味で、とても「表面的」なバンドだと思われてきた。バンドとしての「モチーフ」を持たず(持たないように見え)様々な実験的なことに挑戦し、7thアルバム『ワルツを踊れ』において彼らは「コンセプチュアルであること」を突き詰めるに至ったのだ。
続く8thアルバム『魂のゆくえ』で一度リフレッシュした(それは眩しいほどに「無色」だった)後、さて、彼らはどこへ向かったのか。
新作アルバム『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』を聴いた時、僕は「ああ、これがくるりの音だ」と思った。
一般的な評価に従うならば、今作はあくまでもコンセプチュアルな「日本の音」であり「日常的な物語」を伝えるアルバムである、といえる。だが、思い出してみれば、彼らはもともと、はっぴぃえんどの血を引く「日本的」かつ「日常的な物語」を体現するバンドだったはずだ。
つまり、ここにきて、彼らは「原点回帰」を果たした。それは、上野の言うところの「深さ」を獲得(改めて表明?)し、自ら「くるりであること」を規定してみせたことと同意ではないだろうか。そして、その規定内容は、個人的な思い込みかもしれないが、僕たちのなかに漫然と在ったはずの、しかし殆ど忘れられていた「くるりらしさ」と対応するものなのではないか。
むしろ、そういった「らしさ」が無ければ、彼らのようなコンセプチュアルでマニアックなバンドが、ここまで手放しに広く支持されることは難しいはずだ。

ところで、『言葉にならない〜〜』が上記したような「原点回帰モノ」に留まる作品かというと、そうではない。
西欧の空気をまとったメロディとロックンロールの勢いとのコントラストがクセになる「犬とベイビー」や、『アンテナ』期のサイケさを感じさせる「目玉の親父」など、彼らのキャリアを活かした曲もあれば、「コンバット・ダンス」のような新しいセンス(R&B!!)もしっかり存在する。

「深さ」を得たくるりは、それでも、しっかりと前方を見据えている。
あるいはここからまた、僕たちファンを驚かせるようなコンセプトを打ち出していくのかもしれない。
しかし、『言葉にならない〜〜』以降のくるりにとって、いかなる活動も決して「くるりらしさ」を損なわせることにはならないはずだ。