初音ミク オリジナル作品「テノヒラ」

D

つれに教えてもらった曲。

シンセの使い方が、非常に好み。
ただ、曲全体が構成的にのっぺりしているのがチョット残念。
盛り上げ所を小出しにするのも大事だけど、
せっかく恋愛系の曲だし、一つ、がっちりとした山場を作って欲しかった。
ミクは高音がよく出ていて、良い。……と思う。
総合的には結構クオリティ高いんじゃないか。


……的な感じで、最近「まあ、ボカロ曲も聴いてみるか」モードな僕。
とりま、このCDを予約注文してみた。

EXIT TUNES PRESENTS Vocalogenesis(ボカロジェネシス)feat. 初音ミク(ジャケットイラストレーター 三輪士郎)

EXIT TUNES PRESENTS Vocalogenesis(ボカロジェネシス)feat. 初音ミク(ジャケットイラストレーター 三輪士郎)


皆さん、何かオススメがあれば教えてください><


ではでは、ですますですた。

最近考えていることや経験したことをつらつらと


今更ながらで申し訳ないですがウェブ漫画『メンヘラちゃん』にハマる。
4コマ時々短編マンガです。
この漫画の素晴らしいところは、なんだかんだ言って、しっかりとした「恋愛モノ」として成立しているところだと思う。そして「メンヘラちゃん」の心理描写をメインに添えていると思わせつつ、その実、彼女に対する周囲の心理を描写することにこそ重きを置いている、という点が、よく出来ている。
当然のことだが「ズレた人間」の恋愛を成立させるために、むしろ重要なのは彼/彼女の「相手」側が己の「在り方」をどう定めるか、なのだ。文学の世界でも「ズレた人間」の出てくる恋愛小説なんかは、その「相手」側を主人公にした作品が多い。谷崎の『痴人の愛』なんか、その最たる例だよね。(ズレる方向性が違うけどww)

作者はまだ中学生。話の運びかたには、ところどころ躓きもある。
だけど、間違いなく面白いです。是非、ご一読を。




昨夜、とある掲示板のスレ住人達とスカイプを使ってラジオを放送した。
途中、僕はウトウトしてしまって、数十分ほど意識が飛んでいたのだが、後で録音しておいたものを聴くと、その間に「技術職の就職難」についての話が出ていた模様。

簡単にまとめると、
この時代、企業側も経営状態が厳しくて、わざわざノウハウのない人間を雇って「いちから教える」なんていう余裕はない→となると「まだその世界についてよく判らないが、憧れだけは持っている」ような人は、そもそも技術系の世界に飛び込むことすら出来ない→だからといって「新卒」ブランドを捨ててしまうのはキツイし、企業側も「新卒」ブランドを重視している→仕方ないから別の世界を目指すことになる→結果、人材が育たず、業界全体にとってもあまり良くないことに……。
専門色の強い業界はこういった状況に置かれているらしい。

で、その話を聴きながら、僕が思ったのは「派遣産業」の存在。
本来「派遣」という制度は専門性の高い技術職の人員不足を補うために存在していた。現在もそういった専門系の仕事を扱っている派遣会社は多く存在している。「派遣に登録しとく」というやり方なら、即戦力に向かないような人も、他にバイトをしながら勉強できる。派遣社員であれば「新卒」ブランドなんか関係ない。

ただ、現状、ほとんどの派遣会社は労働力を不当に搾取している。賃金の中間搾取も平然と行われている。だから、まずは派遣会社に社会保険、労働保険という概念をもっと尊重させなければいけない。そして「派遣社員による労働組合結成」の一般化。世間には、「派遣」に「労働組合」は存在しない、と思っている人が結構いるらしい。だが、実際、日産やフルキャストなどには「派遣労働組合」が存在している。派遣社員だって、自分の意見を持つことは出来るんだよ、ということを、もっと世間に教示していく必要がある。

このあたりさえ(これが難しいのだけど)クリア出来れば、世の技術職希望者は、わざわざ「正社員」という言葉にこだわる必要がなくなる。そりゃあ、最初のうちは世間の無理解も出てくるだろう。だが、そんなことを気にしていては現状の改善は起こりえない。企業側としても、この「改善」によって困ることは何もない。むしろ業界の活性化に繋がるから良いことだと言える。

どんな時代にも突破口は必ずある。
諦めるな、若者諸君!!!!ぉ




プロジェクト「.review」サイト上に掲載されている僕の論考
『果たしてウェブ・メディアの台頭は「スカウト雑誌」の未来を殺すのか』
これに関する議論が、twitter上のハッシュタグ「 #co_article014 」を利用して行われている。といっても、いまはもう、落ち着いてしまっているのだが、色んな人の意見に耳を傾けつつ論考をバージョンアップさせていくのはとてもスリリング。
僕の論考の主旨は
「ウェブ・メディアと〈スカウト雑誌〉と呼ばれる音楽雑誌群(『ロキノン』や『スヌーザー』など)の差別化をどう図っていくか」というもの。いまのところ、この論への+αとしての「提案」が多くなされている。とても嬉しい。

よければ皆さんも読んでやってくださいね☆




僕の好きなゲーム実況主「すぎる」さんがニコニコ動画に新シリーズをうpし始めました。

↓↓↓こちら↓↓↓
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初っ端から面白いので、オススメです!
是非、ご覧ください!


ではでは、ですますですた。

論考完成! 掲載!

と、いうわけで、僕が参画させていただいているプロジェクト「.review」のサイト内にて、僕の論考が掲載されました。

『果たしてウェブ・メディアの台頭は「スカウト雑誌」の未来を殺すのか』←こちらをクリック!


他の業界においては、もはやクリシェ化してきている「ウェブ・メディアと既存メディアの共存」というアイデア。それが、いわゆる「音楽雑誌業界」においては、ほとんど「問題にすらされていない」現状に対して「それってどうなの?」的立ち位置から、具体的な「革新案」を提示しています。


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(序文より引用)

ロキノン系」と呼ばれるアーティスト達がいる。
日本でもトップクラスの発行部数を誇る邦楽雑誌『ロッキング・オンJAPAN』(以下、ロキノン)。この雑誌に頻繁に掲載されることでファンを増やし、その地位を安定させることに成功したアーティストの総称としてこの言葉は生まれた。ある者は熱狂的に彼らを歓迎し、ある者はそれが「ロキノン系」であるということだけで批判的に突き放そうとする。いずれにせよ、日本でロック・ミュージックを聴く者にとって、この強力な磁力を持ったロキノンクラスタの存在は無視できないものであった。あった、と曖昧な記述をとったのは、現在、その「ロキノン」の存在意義が――と、いうよりも、ロキノンを含む「スカウト雑誌」の存在意義が――非常に危うくなってきているからである。

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本論を書くうえで、最も気をつけたこと。
それは「希望」を持つ、ということ。そして、なにより「わかりやすく」。
結構頑張って書かせていただきました。
是非、読んでいただければと思います。


ではでは、ですますですた!

お疲れ様でした

90年代からこっち、
ずっと日本のロックファンの間で共有されてきたであろう
「とりあえず日本にはゆら帝がいる」という安心感。


その音楽は一つのスタンダード。
エポック・メイキングにして最終兵器。


がっつりファンだったわけではない。
せいぜい、カラオケで数曲歌う程度の接し方しかしていない。
ライブだって、ワンマンは一度しか行ってない。(それも、もう、3年くらい前)


でも、今日「空洞です」と「無い!!」のライブ動画を観ていて
なんとなく寂しいようなオモロイような気持ちになった。


う〜ん、カッコイイ。



ゆらゆら帝国、解散。
お疲れ様でした!


空洞です

空洞です

今更ながら(だからこそ?)「東京都青少年の健全な育成に関する条例」改正案について

twitter上にて、ある人が
石原慎太郎アンソロジーを出そうぜww」
と提案していた。
それに対して僕が、軽い気持ちで
「じゃあ、タイトルは『非実在石原慎太郎』で」
と書き込むと、それはほんの冗談に過ぎなかったにも関わらず、多くの真面目な(共感/反感的)反響を呼んでしまった……gkbr


そんなわけで、感情的な推進派と同じくらいの(いや、もっと多くの?)感情的な反対派を生み出した例の「東京都青少年の健全な育成に関する条例」改正案。主に「視覚的表現における18歳未満の性的表現」を禁ずる(法案提出当時の解釈)とした「非実在青少年規制案」への賛否両論でネット上は盛り上がり、僕自身も(反対派として)大いに盛り上がった。


先日(19日)、とりあえず条例案決議は「審議継続」という結果に相成った。相成ったわけだが、まだ決して「終わった」わけではない。しかし多くの批判に対して18日に東京都が発表した「東京都青少年健全育成条例改正案について」を見ていると、どうもこれまでの今条例案に対する反対派の見方を多分に取り入れた内容となっている。そこで、今回は条例案の解釈については最新の発表をもとにしつつ、これに対する僕の所感を書いていこうと思う。


法案の内容

この条例には、もととなる条例「東京都青少年の健全な育成に関する条例」が存在する。

これは、簡単に言えば「青少年が手にすることが出来る情報(書物・インターネット・がん具・環境など)のなかで、彼らの精神/身体に著しく悪影響をもたらすと思われる情報について規制していこう」というもの。例えば現行の「不健全図書(全国的な呼称としては有害図書)指定」などは、この条例に基づいて行われている。
今回の改正案が問題となったのは、都がこういった「情報規制」のレベル/範囲を変えていこうしたことが原因だ。では、どう「変え」られているのか。


1.ネット環境について

【内容】
これまで「民間における自主的かつ主体的な取組を、国及び地方公共団体は尊重するべし」とされてきたインターネット情報の扱い方について、今回、都は〈青少年の(媒体)利用の有無を確認〉すべし、とした。そして、利用者に青少年が含まれる場合には、青少年有害情報フィルタリングサービスを提供している旨を告知し、その利用を推奨するように努めなければならない〉と、半ば強制的に方法を指定しようとしている。また、インターネットのブロッキングなどの徹底もこの条例案には含まれている。

ちなみに、18日に追加された都の解釈によると、都が〈個別具体的な有害情報の判断やフィルタリングの基準設定を行おうとするものではない。〉とのこと。


【所感】
法学の世界には「違憲審査基準(厳格審査)」と呼ばれる原則がある。
これは「ある人権(ここではネット上の情報を知る権利)について規制を行う場合、『その立法目的が真にやむを得ない目的(利益)に基づいているか、また、基づいていたとしてその規制の手段が目的を達成するために必要最小限なものであるか』について考慮されなければならない」というものだ。
今回は、これに照らし合わせて条例改正を考えてみよう。仮にインターネット上に「有害情報」が存在し、それが青少年に悪影響を与えるとして(目的が正当なものであるとして)も、フィルタリングは決して「必要最小限」な手段とは見なされないのではないか。
何故なら、フィルタリングという技術は非常に不完全で、誤認識が起きやすく、健全なコンテンツにまで無用な規制が及んでしまう可能性があるからだ。また、インターネットのブロッキングにおいては、そういった「有害コンテンツ」の視聴が保障されている「青少年」以外の他者(成人)までもが規制の影響を受けてしまう。それは「知る権利」の侵害である。*1
さらに「都は有害情報判断/フィルタリング基準設定に関与しない」とする発言は無責任極まりない。既に書いた通り、フィルタリングとはそれ自体不完全なものである。そのうえ、フィルタリングの本来の「適用範囲」まで事業主ごとにバラバラなのだとすれば、これは利用者側にとって混乱のもとでしかない。
「ダメ」と明確に区分されたものを、本当に規制が必要な人に対してのみしっかり規制する。そういう姿勢が見られない以上、この条例案は独りよがりかつ無意味な「ゾンビ」と化してしまう。


2.非実在青少年について

【内容】
都は、現行条例において〈青少年に対し、性的感情を刺激し、残虐性を助長〉する、とされている「図書物」の範囲を拡張しようとした。つまり〈年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から18歳未満として表現されていると認識されるもの(以下「非実在青少年」という。)を相手方とする又は非実在青少年による性交又は性交類似行為に係る非実在青少年の姿態〉を表現した、いわゆる「エロマンガ」を新たに含めたい、というわけだ。理由としては〈青少年の健全な成長を阻害する〉から、ということらしい。
なお、これに対して反対派からは「単なる風呂の描写や、ストーリー上必要不可欠な性行為シーンなども規制されてしまうのではないか」といった不安が出ていた。だが、18日に追加された都の解釈では〈未成年者の性交・性交類似行為を直接明確に描いたもののうち、読者の性的好奇心を満足させるための描写として、殊更にその行為を賛美し、あるいは殊更にその行為を誇張して描いたもの〉のみを規制する、と明言されている。そのため〈単なるベッドシーンや、主人公が性的虐待を受けた体験の描写がストーリー上含まれるだけで規制されることはない〉ということらしい。
また〈視覚的には幼児に見える描写であっても、「18歳以上である」等の設定となっているものは該当しない〉ことも明言している。


【所感】
18日の都の解釈発表に接して、個人的にメチャクチャ驚いた。
「えっ、そんな軽いもんだったの?」という感じ。
そして、そこを含めたこの条例案には大まかには賛成したい。

ただ、それでも幾つか問題はある。


・「非実在青少年」が「児童ポルノ」化するのではないか問題

まず【内容】には書いていないが、この条例案において、都は「非実在青少年」を〈児童ポルノの根絶に向けた都の貢献〉という主題のもとで語っている。一応、詳しくみていくと「児童ポルノ」と「視覚描写物」は分けて書かれている。だが、それでもやはり今後「児童ポルノ」と同一化されていくのではないか、という「不安」は残る。
僕は現在「児童ポルノ」とされているものの強い規制には賛成している(ここでの「児童ポルノ」とは被害者がいる作品を指す。芸術性の高い写真集やテレビでの着替え/入浴シーンはアリだと思っている。)。だが、仮に漫画やアニメをもってして「児童ポルノ」と見なすようになった場合、それには反対せざるをえないと思っている。
白田秀彰法政大学准教授は『違法有害表現に関する覚書』及び、それに後続する様々な文章のなかで、自然哲学的な見地から「表現」の自由を語っている。
彼の考えを個人的解釈でまとめてしまえば「それを表現しようがしまいが『12歳で性行為』を行うことは可能である。また、実際にそれをしている人はいる。そうした『自然』を表現することは何も悪いことではない。何らかの社会的害悪を唆とす(あるいは実際に社会的害悪を引き起こした)ものでない以上、国家権力はそれを規制すべきでない。」ということになる。
僕はこの考えを援用しつつ、以下のように主張したい。
白田が語る「自然」とは、あくまで12歳程度の少女もセックスをする、という範疇に留まっている。だが、少なくともマルキ・ド・サドが遺した人類史上に残る大悪書『悪徳の栄え』以降、性の嗜好性は実際問題、かなり相対化されている。
例えばこの書物に出てくる人物の殆どが、自らの快楽のために他者を無意味な処刑へと課し(なかには10代の少女も被害にあう!)、そこに性的興奮を覚えるような者ばかりである。彼らに言わせれば、それは「キリスト教という人為的束縛」から遠く離れた「自然」的な行為であるとされる。


〈罪というのは本来、目的なしに犯され得るほど、それ自体において十分楽しいものではないかしら?〜〜この地上には、どんな奇想天外なことだって、日々行われていないことは一つもなく、自然法則に矛盾するようなことは一つもないのだってことを信じなければいけないわ。自然はあたしたちに悪を行わせる必要がある時以外は、決してあたしたちに悪の欲望を吹き込みはしないのですからね……〉(マルキ・ド・サド著/澁澤龍彦訳『悪徳の栄え』)


僕は、これらの論理が「実行」されるうえにおいては断固批判する。だが、これらの論理を「表現」することは、白田的自然哲学解釈のもとにおいては必ず支持するだろう。
もし、こういった「表現」が「児童ポルノ」と一緒くたにされ、規制されることになったら? あるいは、今回の都条例案がそこを見据えてのものだとしたら? それは恐ろしいことである。


・「非実在少年」は本当に〈青少年の健全な成長を阻害〉するのか問題

この問題についてはSF作家の山本弘エビデンスに拠って、そのいい加減さを論証してみせている。こちら→「「非実在青少年」規制:目に見える形で反論を提示する」

01年に日本図書館教会が発表した「青少年社会環境対策基本法案についての見解」においては、より広く「有害図書」全般が青少年に悪影響を及ぼす可能性について〈科学的に証明できない〉とハッキリ書いている。

ネット環境規制の部分でも書いたが、これらの情報は「厳格審査」を原則とする考え方のもとでは否定的結論に結びつくものだ。つまり「非実在青少年を規制するのは不当である」といった結論に。


だが、ここで忘れてはいけないのは、我々「見たい者」の権利と同じだけ「見せたくない者/見たくない者」の権利も大事だということだ。とくに「見せたくない者」が青少年の親である場合、その権利を無視することは直接「親権」の無視にも繋がってくる。「厳格審査」の場において、こういった「人権」の尊守ほど「やむを得ない理由」はない。結果「非実在青少年規制」は妥当なものだということになる。

幸いにも都は「成人=18歳以上」がそれを読むことを規制するわけではない、と明言している。ということは、今後、都と現場がこれまで以上にゾーニング(ここではR指定、包装指定、設置場所指定などの規制)を徹底し、「見せない/見ない権利」を守りつつ、全員が納得できる形でこの問題は解決していけるはずである。*2


これら二つの問題から、僕は「非実在青少年規制案には大まかに賛成するが、それが二次的に『児童ポルノ』解釈の拡大に繋がることは避けるべき」と考える。



蛇足

「ネット環境規制/情報規制」と「非実在青少年規制」
これらの規制は、都の「文化/民主制への無理解」を表面化させてしまった。
だが、それと同時に、冒頭にも書いた通り、それに反対する人々の一部がとても感情的になってしまっていることもわかった。こと「自分以外の人間の権利」に関して、非常に無関心であるように感じた。今回、規制が「審議継続」となったことを受けて、ネット上には声高に「勝利」を叫ぶ人もいる。ある大型掲示板では「非実在問題」について「二次元と三次元の違いもわからない馬鹿が勝手に騒ぎ立てて起きた問題だ」と捉えている人もいた。別の人はその意見に同意しつつ「規制派ざまぁww」と喜んでいた。
断言しよう。そういった反応は間違いだ。僕達は、一応とはいえ「勝利」したからこそ、責任をもって「自分以外の人の権利」を尊重する条例や規則の成立を目指す必要がある。そのことを他の「反対派」に喧伝してまわる必要がある。

それこそが本当の意味での「民主国家的自由」を守る行動なのではないだろうか。



*1:この部分については一部、インターネット/デジタル機器に関する意見団体MIAUによる「東京都青少年の健全な育成に関する条例」改正案についての意見書」を参考にした。


*2:現在、ゾーニングの基準はかなりテキトーなことになっている。詳細な例はこちらのブログ記事を参照されたい→「東京都の不健全指定図書について」


よくわかる改正児童買春・児童ポルノ禁止法

よくわかる改正児童買春・児童ポルノ禁止法

『涼宮ハルヒの消失』(ネタバレ注意)

どうもです、ですますです。


いきなりですが、僕は、読書をするときついつい「流し読み」しがちになるという悪癖を持っています。なんというか、細胞組織レベルで集中力が欠如しているのかもしれません。一文一文をじっくり読み込んでいくことが出来ないのです。全体的な内容をしっかり読み取れているかどうかさえ、常に怪しいくらいです。こういう自分のいい加減な部分、いつかは治したいなぁ、と思っています。が、こればっかりは治そうと思って治せるもんじゃない。

なんで突然こんなことを言い出したのかというと、以前の記事で紹介した谷川流の『涼宮ハルヒの消失』に対する僕の読みが、どうやらメチャクチャ甘いものだったらしい、と気付いたから。と、いうのも、先日ねじこと連れ立って映画版『消失』を観に行ってきたんですよ。で、この作品の面白みは、僕が記事で書いたような「オタク肯定」作品としてだけではなく、痛烈な「オタク批判」作品としても読み取れる、ダブル・スタンダード性を持っていることだと気付いたんです。(あるいは僕だけが気付いてなかった……のかも)


つまり、こういうことです。
確かにあの作品は、「キョン=読者(視聴者)」という図式に当てはめ「自己言及的」に観る/読むことができる。そうするとハルヒが普通の高校生で未来人も宇宙人も超能力者も、そしてSOS団も存在していない、そんな至って普通の「セカイ」を嫌う(オタクとしての)「この私」という存在を我々に認識させてくれる。そして、「キョン」が元いたセカイへと戻ることを選択することで、作者は『涼宮ハルヒ』シリーズに期待してきた我々をも一緒に救ってくれるわけです。ですが、それはあくまでオタク文化として『消失』を眺めた際に発生するメタ=オタク文化論的な結論に過ぎない。ここで忘れてはいけないのは、純粋に「テクスト」を眺める姿勢でしょう。*1

思いきり単純化して書いてしまうなら、『涼宮ハルヒの消失』というテクストそのものが発しているのは「色々と大変なことや辛いこと、シンドイこともあるけど、それでもやっぱり現実に戻ったほうが楽しいよ」というメッセージに他ならない。つまり、この作品は様々な仮想「セカイ」にのめり込んでいく「この私」への警告、忠言を行わんとしているわけです。
そういう意味で、こちらもまたメタ=オタク文化論的解釈と言えそうではある。ですが、あくまで〈純粋に「テクスト」を眺める〉姿勢が浮かび上がらせた、このもう一つの「自己言及性」は、先に挙げた非常にスタティック(=静的)な「自己言及性」とは真逆のダイナミック(=動的)な可能性を孕んでいるわけです。どちらの解釈に従ったほうが作品を心地よく消費出来るのか、それは人それぞれ。でも『涼宮ハルヒの消失』の内包するダブル・スタンダードは、オタクの眼前に越えるべき「壁=現実」を突き出す、挑発的な作品であることは間違いない。


そういう意味で、オタクを自称する皆さんは、あくまで心して、しかし一度は原作を読むなり、映画を観るなりするべきじゃないかと思うのでした。


ではでは、ですますですた。


*1:この後の文章を読んでもらえれば判るとおり、決して「テクスト論者的に思考しろ」と言っているわけではない。確かに「テクスト」の発するメッセージについて「純粋」に読み取る必要はあるが、だからといって最終的に我々が「純粋にテクスト単体を単体として消費する」ことを強制されるわけでは全くない。


涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)

公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失

公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失

「萌え」や「MySpace」「初音ミク」……「スター不在」型メディアと、それが生みだす欲望について、単なる現状分析(twitterほぼ丸写し)

・他者を介して欲望を発見し、他者を「見る=なりきる」ことで欲望を満たす「スター崇拝」タイプの欲望が萎んでいく一方で新たなタイプの欲望が見受けられるようになった。


・現在のメディアのありかたは、スター(他者a)など必要とせずとも自己に欲望を投影させれば事足りると消費者に思わせる「自己完結型メディア」である。


・例えば「日常系」「空気系」と呼ばれるアニメ。これらのアニメを観る際、視聴者は主人公の男を介さずともヒロインを消費出来ている。あるいは主要な男性キャラの存在しないアニメにすら「ヒロイン」が存在している(らき☆すたけいおん!ひだまりスケッチ……etc)。
→この事実は、いまや消費者と「ヒロイン」の間に「決められた物語」が不必要になったことを示している。
→「恋する」ことは、自ずから「物語」を含むものだが、ここで消費者は代わりに「萌える」という概念を採用した。
→「○○萌え」と発言することは○○への恋愛感情を主張することではない。〈自分は○○に萌える人間です〉という自己主張だ。あるいは「俺の嫁」とは、〈「俺」の「嫁」〉と分けて書かれたものではなく、あくまで「俺の嫁」という一つの自己主張である。
→つまり、外部(アニメ内)にスター=ヒーローを置かないヒロイン消費。自己主張としてのヒロイン消費がここでは行われている。


・「スターなき欲望」を音楽のフェーズで考えれば、初音ミクMySpace文化あたりが挙げられる。これらの文化は「一人のスター」ではなく「大勢のネ申」を生み出す機能を持つ。スターを「観る」ことでしか音楽への欲望を満たせなかったのが、気軽に自分で音楽を作り「発表」できる。
→彼らのうちのほとんどは「スター」ではなく「ネ申」にしかなれない。あるいは「ネ申」にすらなれない。だが、とにかくある種の「自己主張」を行うツールとして、これらの音楽系メディアは十分役に立つ。
→余談だが、その「自己主張」は、それら創作物をblogで紹介したがる人達の「自己主張」も二次的に生み出す。


・これまで、「スター」と呼ばれてきたアーティストやアイドルも、もちろん「自己主張」はしてきた。だが、それはネット上で行われる「ネ申」達の「自己主張」とは全く性質が異なる。
前者は「自己主張」によってプレゼンスを得て、売れた。
後者はあらかじめ用意されたプレゼンスを利用し、ウケるために「自己主張」を行う。

→例えばMySpaceに音源を投稿するアーティスト達。彼らは用意されたスペース上の、用意されたタグ(ジャンル)の範囲内で他者との差異を図ろうとする。
→かつて、アーティストが広くプレゼンスを得ることはとても難しかった。だからこそ「個性」が必要だった。
→いまや「個性」があってもなくても、とにかくそのスペースに参加さえすればプレゼンスを共有する権利は与えられる。そのなかでいかに分子数を奪うかが目下のところアーティスト達の命題となっている。


・この環境下において「まったく新しい」音楽性は非常に発生しにい。プレゼンスを得られるアーティストの少なかった時代でなら「まったく新しい」と呼ばれてもおかしくなかった「発想」が、広大なネット上では「よくある発想」として歯牙にもかけられない、なんてことはよくあることだ。
あるいは「まったく新しい」音楽性が、次の瞬間にはベタと化してしまうくらいの拡散性がネットにはある。その「拡散」は、ディケイド単位で眺めれば大変化と呼べそうなものであっても、MySpace上のアーティスト達には、ごく自然な「流れの一部」として片付けられてしまう。
→つまり、一昔前のスター達がやったような「自己主張」では、もはやネット上を沸かすことは出来ない。ほんの一瞬なら可能でも、決して持続しない。
→件のリバイバル・ムーブメントのように「〈個性〉こそないが〈需要〉ならある」音楽性のなかで他者と差をつける、新しい形の「自己主張」を目指すことになる。

初音ミク・ユーザーなんかはその良い例で、初音ミクを使ってる時点で「〈個性〉こそないが〈需要〉ならあり」、プレゼンス(ニコニコ動画)も得ている、そういうアーティスト達が、より他者よりウケようと、歌詞やら曲調やらを工夫(=自己主張)している。


・最初にも書いた通り、こういったスターを必要としない、自己に欲望を投影するタイプのメディアがもたらす「自己主張」は、それ自体、当然ながら「自己完結型」なものだ。
→ただ、この「自己主張」が「報われる」(欲望を満足させる)ためには、競争相手(他者b)が必要となる。
→良く言えば「切磋琢磨」、意地悪な言い方をすれば「玉石混交、天才凡才入り混じっての〈俺のほうがすごいでしょ?〉合戦」。
→それを見た人がまた軽いノリで参戦してくる/できてしまう。結果、玉石混合の争いは、更に加熱する。



(まとめ)
気軽ではあるが、いままでとは違った「困難」を伴った「自己主張」を欲望させる……そんな性質をもったメディアが、現在、日本のある種のカルチャーを支配している。それは間違いないことだと思う。


また、ちょくちょく加筆修正していきます。ご意見等募集。
これを基に何か書けたらいいなぁ。