真に思えたること、それは

不思議なのだ。


かつて、哲学者スピノザは「知性改善論」のなかで、次のように書いた。


「身体の観念は身体そのものではない。そして観念がその対象と異なったあるものであるからには、それはまた、それ自体、理解され得るあるものであろう。」


スピノザにとって「存在」とそれに対する「観念」とは、異なったものである。
彼は、この乖離の反復からなる増殖が、「認識」という行為の中で、ほとんど無限に行われていくであろうことを示唆している。
私がいる。私はこういう人間だ。こういう人間であるということは、そういうことだ。そういうことであるということは、ああいうことだ。


じゃあ、その「ああいうこと」とは、一体「どういうこと」なのか?


こうなってくると、もはや「問い」は「私」という存在から遠く離れたところで、物欲しげにこちらを見つめる他者でしかない。鬱陶しいことに、この他者は、それに応えようとする「私」を哂うかのように更に増殖し、遠くへと駆けていき、それなのに「私」の脳内に巣食う他者でありつづける。


だからスピノザは言う。
そんな「問い」を追い続けることなど無駄だ。やめてしまえ。


「確実性〈確知〉とは想念的本質そのもの以外の何ものでもないということ、言い換えれば形相的本質を感受する様式の中にこそ確実性そのものは存するということ」


つまり、どれほど「存在/観念/問い」の無限反復・無限増殖が可能であろうと、それらは全て「形相的本質を感受する様式の中に」収まりうるのだから、その一義性、まず「私がある」ことこそを大事にしなさいと。(それは突き詰めていくと「生命である」こと、にまで遡行していく発想に繋がるわけだけど、いまはそこまでは考えない)
そのことにたどり着くために、とてつもない思考の反復・増殖を経たものだなぁ、と感心すること然りだが、それでも、スピノザのこの言い分が、僕のなかで、それなりに価値を持っていることは確かだ。そして、僕は、その「価値」に苦しめられている。


例えば。
「存在の一義性」なんて、社会に埋め込まれた僕達の、恋愛発生・遂行プロセスにおいて、何の意味も成さない概念でしかない。どうしたって僕達は、恋愛のなかで「彼/彼女」という存在を手前勝手に脳内培養−増殖させていく。「彼/彼女」という「存在」を多角的に規定していく。その一つ一つ(一人一人?)を検討し、一喜一憂する。

最後、もはや思考をズブズブ化させてしまった僕達は、スピノザ的な「存在」の「感受」を行うかもしれない。
「とにかく彼女なのだ」という、まるで当然のことを思い出す、という形で「諦めてしまう」かもしれない。


不思議なのだ。
このことは、僕のなかでは、とてもダサいことで、(と書いたとき、実はもう、僕はスピノザを見ていない。僕の内面を覗き込んでいる。勝手に「ダサさ」を自己生成し、自己ツッコミを加えているに過ぎない)、本来なら絶対にしたくない「妥協」だ。
だけれど、僕だってまた「諦めて」きたのだ。
その人のことが好きと語るには、あまりにも大変な――単純な「一義性」(合理性と呼んでもいいかもしれない)には回収されえない、様々な社会的葛藤が、この「恋愛」というやつには概ね含まれているにも関わらずだ。


不思議なのだ。
この期に及んで、スピノザの思想に、より得心している自分が。

不思議なのだ。
その得心に、思っていたほどには「諦め」の響きが含まれていない、という事実が。

不思議なのだ。
僕自身の中にある「愛情」と「状況」の、当然ともいえる「折り合いの取れなさ」に対して、あろうことか不満を感じている自分自身が。


「形相的本質を感受する様式の中にこそ確実性そのものは存する」
「形相的本質を感受する様式の中にこそ確実性そのものは存する」
「形相的本質を感受する様式の中にこそ確実性そのものは存する」


僕の脳内で「存在」と「観念」が分裂し始める。
今度は、僕自身の「存在」と「観念」もまた、反復し、増殖していくのだ。
ステージを変えて続いていく言語・思考ゲーム。

まだまだ、エンディングは迎えられそうにない。