一年経って、思うこと

僕は「死んだ人間」にあまり興味がない、と思う。

フジファブリックのヴォーカル、志村正彦が死んで一年が経つ。
最初の一ヶ月くらいの間は、ファンとして、確かに落ち込んでいた。
訃報に接した時には、泣いたような気もする。
だけど、いまでは、別に何とも思っていない。

もちろん、友人との間で、ふと彼の話題が出たときなど、少しは重たい気持ちになる。
だけど、その「重み」は、例えばニュースで、行ったこともない場所の、会ったこともない人の訃報に触れた時に感じるような、茫とした「重み」だ。
茫とした「重み」には、「不安」がない。
例えば、彼(というかフジファブリック)についての思い出や、これから先、二度と彼の生声が聴けないやりきれなさ……そういった、心を乱すような「不安」が想起される、そんな「重み」を、もはや志村正彦という存在は訴えかけてこない。

僕には、どこか想像力が欠けているのかもしれないと思っていた。
不思議なのは、そのことについて、全く切なく感じないことだった。
「そういうもんだ」
と、いつも思っていた。

今日、それでもフジファブリックの音源を全部持ち出してきて、思い出をたぐりながら聴いてみた。志村が死んでからこっち、あれだけ集中してフジファブリックと(そして、その思い出と)向き合ったことはなかったように思う。それは、別に避けていた、とかじゃなくて、なんとなく、面倒くさかっただけのことなのだけど。
不思議なことに、それは感傷ではなく楽しさを、まるで「今ここ」のことであるような興奮を「覚えさせる」体験だった。思い出は思い出でなく、新しい記憶として僕を嬉しい気持ちにさせた。


フジファブリックの曲に「記念写真」という曲がある。
そのサビの部分で、志村は、あの間延びした声で、こう歌う。

〈記念の写真 撮って 僕らは さよなら
 忘れられたなら その時は また会える〉

聴いていて、泣いたりはしなかったけど、
「そういうもんか」
ようやく解った気がした。


僕は「死んだ人間」に本当に興味がない。
「死んだ人間」は茫としていて、僕に何も届けてはくれない。
その代わりに、僕は「また会える」とぼんやり信じてきたのだ。
だから平気だと、「また会える」限り、ひとは「死なない」のだと、常に僕のなかで更新され続けるのだと、ぼんやり。


多分、また明日からしばらくの間、フジファブリックの音源に触れない日々が続くと思う。
聴いてみたいバンドやアーティストは毎日のように現れる。
僕は、結構、音楽が好きなのです。


フジファブリック/記念写真(LIVE ver.)