『涼宮ハルヒの消失』(ネタバレ注意)
どうもです、ですますです。
いきなりですが、僕は、読書をするときついつい「流し読み」しがちになるという悪癖を持っています。なんというか、細胞組織レベルで集中力が欠如しているのかもしれません。一文一文をじっくり読み込んでいくことが出来ないのです。全体的な内容をしっかり読み取れているかどうかさえ、常に怪しいくらいです。こういう自分のいい加減な部分、いつかは治したいなぁ、と思っています。が、こればっかりは治そうと思って治せるもんじゃない。
なんで突然こんなことを言い出したのかというと、以前の記事で紹介した谷川流の『涼宮ハルヒの消失』に対する僕の読みが、どうやらメチャクチャ甘いものだったらしい、と気付いたから。と、いうのも、先日ねじこと連れ立って映画版『消失』を観に行ってきたんですよ。で、この作品の面白みは、僕が記事で書いたような「オタク肯定」作品としてだけではなく、痛烈な「オタク批判」作品としても読み取れる、ダブル・スタンダード性を持っていることだと気付いたんです。(あるいは僕だけが気付いてなかった……のかも)
つまり、こういうことです。
確かにあの作品は、「キョン=読者(視聴者)」という図式に当てはめ「自己言及的」に観る/読むことができる。そうするとハルヒが普通の高校生で未来人も宇宙人も超能力者も、そしてSOS団も存在していない、そんな至って普通の「セカイ」を嫌う(オタクとしての)「この私」という存在を我々に認識させてくれる。そして、「キョン」が元いたセカイへと戻ることを選択することで、作者は『涼宮ハルヒ』シリーズに期待してきた我々をも一緒に救ってくれるわけです。ですが、それはあくまでオタク文化として『消失』を眺めた際に発生するメタ=オタク文化論的な結論に過ぎない。ここで忘れてはいけないのは、純粋に「テクスト」を眺める姿勢でしょう。*1
思いきり単純化して書いてしまうなら、『涼宮ハルヒの消失』というテクストそのものが発しているのは「色々と大変なことや辛いこと、シンドイこともあるけど、それでもやっぱり現実に戻ったほうが楽しいよ」というメッセージに他ならない。つまり、この作品は様々な仮想「セカイ」にのめり込んでいく「この私」への警告、忠言を行わんとしているわけです。
そういう意味で、こちらもまたメタ=オタク文化論的解釈と言えそうではある。ですが、あくまで〈純粋に「テクスト」を眺める〉姿勢が浮かび上がらせた、このもう一つの「自己言及性」は、先に挙げた非常にスタティック(=静的)な「自己言及性」とは真逆のダイナミック(=動的)な可能性を孕んでいるわけです。どちらの解釈に従ったほうが作品を心地よく消費出来るのか、それは人それぞれ。でも『涼宮ハルヒの消失』の内包するダブル・スタンダードは、オタクの眼前に越えるべき「壁=現実」を突き出す、挑発的な作品であることは間違いない。
そういう意味で、オタクを自称する皆さんは、あくまで心して、しかし一度は原作を読むなり、映画を観るなりするべきじゃないかと思うのでした。
ではでは、ですますですた。
*1:この後の文章を読んでもらえれば判るとおり、決して「テクスト論者的に思考しろ」と言っているわけではない。確かに「テクスト」の発するメッセージについて「純粋」に読み取る必要はあるが、だからといって最終的に我々が「純粋にテクスト単体を単体として消費する」ことを強制されるわけでは全くない。
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