今更ながら(だからこそ?)「東京都青少年の健全な育成に関する条例」改正案について

twitter上にて、ある人が
石原慎太郎アンソロジーを出そうぜww」
と提案していた。
それに対して僕が、軽い気持ちで
「じゃあ、タイトルは『非実在石原慎太郎』で」
と書き込むと、それはほんの冗談に過ぎなかったにも関わらず、多くの真面目な(共感/反感的)反響を呼んでしまった……gkbr


そんなわけで、感情的な推進派と同じくらいの(いや、もっと多くの?)感情的な反対派を生み出した例の「東京都青少年の健全な育成に関する条例」改正案。主に「視覚的表現における18歳未満の性的表現」を禁ずる(法案提出当時の解釈)とした「非実在青少年規制案」への賛否両論でネット上は盛り上がり、僕自身も(反対派として)大いに盛り上がった。


先日(19日)、とりあえず条例案決議は「審議継続」という結果に相成った。相成ったわけだが、まだ決して「終わった」わけではない。しかし多くの批判に対して18日に東京都が発表した「東京都青少年健全育成条例改正案について」を見ていると、どうもこれまでの今条例案に対する反対派の見方を多分に取り入れた内容となっている。そこで、今回は条例案の解釈については最新の発表をもとにしつつ、これに対する僕の所感を書いていこうと思う。


法案の内容

この条例には、もととなる条例「東京都青少年の健全な育成に関する条例」が存在する。

これは、簡単に言えば「青少年が手にすることが出来る情報(書物・インターネット・がん具・環境など)のなかで、彼らの精神/身体に著しく悪影響をもたらすと思われる情報について規制していこう」というもの。例えば現行の「不健全図書(全国的な呼称としては有害図書)指定」などは、この条例に基づいて行われている。
今回の改正案が問題となったのは、都がこういった「情報規制」のレベル/範囲を変えていこうしたことが原因だ。では、どう「変え」られているのか。


1.ネット環境について

【内容】
これまで「民間における自主的かつ主体的な取組を、国及び地方公共団体は尊重するべし」とされてきたインターネット情報の扱い方について、今回、都は〈青少年の(媒体)利用の有無を確認〉すべし、とした。そして、利用者に青少年が含まれる場合には、青少年有害情報フィルタリングサービスを提供している旨を告知し、その利用を推奨するように努めなければならない〉と、半ば強制的に方法を指定しようとしている。また、インターネットのブロッキングなどの徹底もこの条例案には含まれている。

ちなみに、18日に追加された都の解釈によると、都が〈個別具体的な有害情報の判断やフィルタリングの基準設定を行おうとするものではない。〉とのこと。


【所感】
法学の世界には「違憲審査基準(厳格審査)」と呼ばれる原則がある。
これは「ある人権(ここではネット上の情報を知る権利)について規制を行う場合、『その立法目的が真にやむを得ない目的(利益)に基づいているか、また、基づいていたとしてその規制の手段が目的を達成するために必要最小限なものであるか』について考慮されなければならない」というものだ。
今回は、これに照らし合わせて条例改正を考えてみよう。仮にインターネット上に「有害情報」が存在し、それが青少年に悪影響を与えるとして(目的が正当なものであるとして)も、フィルタリングは決して「必要最小限」な手段とは見なされないのではないか。
何故なら、フィルタリングという技術は非常に不完全で、誤認識が起きやすく、健全なコンテンツにまで無用な規制が及んでしまう可能性があるからだ。また、インターネットのブロッキングにおいては、そういった「有害コンテンツ」の視聴が保障されている「青少年」以外の他者(成人)までもが規制の影響を受けてしまう。それは「知る権利」の侵害である。*1
さらに「都は有害情報判断/フィルタリング基準設定に関与しない」とする発言は無責任極まりない。既に書いた通り、フィルタリングとはそれ自体不完全なものである。そのうえ、フィルタリングの本来の「適用範囲」まで事業主ごとにバラバラなのだとすれば、これは利用者側にとって混乱のもとでしかない。
「ダメ」と明確に区分されたものを、本当に規制が必要な人に対してのみしっかり規制する。そういう姿勢が見られない以上、この条例案は独りよがりかつ無意味な「ゾンビ」と化してしまう。


2.非実在青少年について

【内容】
都は、現行条例において〈青少年に対し、性的感情を刺激し、残虐性を助長〉する、とされている「図書物」の範囲を拡張しようとした。つまり〈年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から18歳未満として表現されていると認識されるもの(以下「非実在青少年」という。)を相手方とする又は非実在青少年による性交又は性交類似行為に係る非実在青少年の姿態〉を表現した、いわゆる「エロマンガ」を新たに含めたい、というわけだ。理由としては〈青少年の健全な成長を阻害する〉から、ということらしい。
なお、これに対して反対派からは「単なる風呂の描写や、ストーリー上必要不可欠な性行為シーンなども規制されてしまうのではないか」といった不安が出ていた。だが、18日に追加された都の解釈では〈未成年者の性交・性交類似行為を直接明確に描いたもののうち、読者の性的好奇心を満足させるための描写として、殊更にその行為を賛美し、あるいは殊更にその行為を誇張して描いたもの〉のみを規制する、と明言されている。そのため〈単なるベッドシーンや、主人公が性的虐待を受けた体験の描写がストーリー上含まれるだけで規制されることはない〉ということらしい。
また〈視覚的には幼児に見える描写であっても、「18歳以上である」等の設定となっているものは該当しない〉ことも明言している。


【所感】
18日の都の解釈発表に接して、個人的にメチャクチャ驚いた。
「えっ、そんな軽いもんだったの?」という感じ。
そして、そこを含めたこの条例案には大まかには賛成したい。

ただ、それでも幾つか問題はある。


・「非実在青少年」が「児童ポルノ」化するのではないか問題

まず【内容】には書いていないが、この条例案において、都は「非実在青少年」を〈児童ポルノの根絶に向けた都の貢献〉という主題のもとで語っている。一応、詳しくみていくと「児童ポルノ」と「視覚描写物」は分けて書かれている。だが、それでもやはり今後「児童ポルノ」と同一化されていくのではないか、という「不安」は残る。
僕は現在「児童ポルノ」とされているものの強い規制には賛成している(ここでの「児童ポルノ」とは被害者がいる作品を指す。芸術性の高い写真集やテレビでの着替え/入浴シーンはアリだと思っている。)。だが、仮に漫画やアニメをもってして「児童ポルノ」と見なすようになった場合、それには反対せざるをえないと思っている。
白田秀彰法政大学准教授は『違法有害表現に関する覚書』及び、それに後続する様々な文章のなかで、自然哲学的な見地から「表現」の自由を語っている。
彼の考えを個人的解釈でまとめてしまえば「それを表現しようがしまいが『12歳で性行為』を行うことは可能である。また、実際にそれをしている人はいる。そうした『自然』を表現することは何も悪いことではない。何らかの社会的害悪を唆とす(あるいは実際に社会的害悪を引き起こした)ものでない以上、国家権力はそれを規制すべきでない。」ということになる。
僕はこの考えを援用しつつ、以下のように主張したい。
白田が語る「自然」とは、あくまで12歳程度の少女もセックスをする、という範疇に留まっている。だが、少なくともマルキ・ド・サドが遺した人類史上に残る大悪書『悪徳の栄え』以降、性の嗜好性は実際問題、かなり相対化されている。
例えばこの書物に出てくる人物の殆どが、自らの快楽のために他者を無意味な処刑へと課し(なかには10代の少女も被害にあう!)、そこに性的興奮を覚えるような者ばかりである。彼らに言わせれば、それは「キリスト教という人為的束縛」から遠く離れた「自然」的な行為であるとされる。


〈罪というのは本来、目的なしに犯され得るほど、それ自体において十分楽しいものではないかしら?〜〜この地上には、どんな奇想天外なことだって、日々行われていないことは一つもなく、自然法則に矛盾するようなことは一つもないのだってことを信じなければいけないわ。自然はあたしたちに悪を行わせる必要がある時以外は、決してあたしたちに悪の欲望を吹き込みはしないのですからね……〉(マルキ・ド・サド著/澁澤龍彦訳『悪徳の栄え』)


僕は、これらの論理が「実行」されるうえにおいては断固批判する。だが、これらの論理を「表現」することは、白田的自然哲学解釈のもとにおいては必ず支持するだろう。
もし、こういった「表現」が「児童ポルノ」と一緒くたにされ、規制されることになったら? あるいは、今回の都条例案がそこを見据えてのものだとしたら? それは恐ろしいことである。


・「非実在少年」は本当に〈青少年の健全な成長を阻害〉するのか問題

この問題についてはSF作家の山本弘エビデンスに拠って、そのいい加減さを論証してみせている。こちら→「「非実在青少年」規制:目に見える形で反論を提示する」

01年に日本図書館教会が発表した「青少年社会環境対策基本法案についての見解」においては、より広く「有害図書」全般が青少年に悪影響を及ぼす可能性について〈科学的に証明できない〉とハッキリ書いている。

ネット環境規制の部分でも書いたが、これらの情報は「厳格審査」を原則とする考え方のもとでは否定的結論に結びつくものだ。つまり「非実在青少年を規制するのは不当である」といった結論に。


だが、ここで忘れてはいけないのは、我々「見たい者」の権利と同じだけ「見せたくない者/見たくない者」の権利も大事だということだ。とくに「見せたくない者」が青少年の親である場合、その権利を無視することは直接「親権」の無視にも繋がってくる。「厳格審査」の場において、こういった「人権」の尊守ほど「やむを得ない理由」はない。結果「非実在青少年規制」は妥当なものだということになる。

幸いにも都は「成人=18歳以上」がそれを読むことを規制するわけではない、と明言している。ということは、今後、都と現場がこれまで以上にゾーニング(ここではR指定、包装指定、設置場所指定などの規制)を徹底し、「見せない/見ない権利」を守りつつ、全員が納得できる形でこの問題は解決していけるはずである。*2


これら二つの問題から、僕は「非実在青少年規制案には大まかに賛成するが、それが二次的に『児童ポルノ』解釈の拡大に繋がることは避けるべき」と考える。



蛇足

「ネット環境規制/情報規制」と「非実在青少年規制」
これらの規制は、都の「文化/民主制への無理解」を表面化させてしまった。
だが、それと同時に、冒頭にも書いた通り、それに反対する人々の一部がとても感情的になってしまっていることもわかった。こと「自分以外の人間の権利」に関して、非常に無関心であるように感じた。今回、規制が「審議継続」となったことを受けて、ネット上には声高に「勝利」を叫ぶ人もいる。ある大型掲示板では「非実在問題」について「二次元と三次元の違いもわからない馬鹿が勝手に騒ぎ立てて起きた問題だ」と捉えている人もいた。別の人はその意見に同意しつつ「規制派ざまぁww」と喜んでいた。
断言しよう。そういった反応は間違いだ。僕達は、一応とはいえ「勝利」したからこそ、責任をもって「自分以外の人の権利」を尊重する条例や規則の成立を目指す必要がある。そのことを他の「反対派」に喧伝してまわる必要がある。

それこそが本当の意味での「民主国家的自由」を守る行動なのではないだろうか。



*1:この部分については一部、インターネット/デジタル機器に関する意見団体MIAUによる「東京都青少年の健全な育成に関する条例」改正案についての意見書」を参考にした。


*2:現在、ゾーニングの基準はかなりテキトーなことになっている。詳細な例はこちらのブログ記事を参照されたい→「東京都の不健全指定図書について」


よくわかる改正児童買春・児童ポルノ禁止法

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