ミルトン『自由共和国建設論』読後感想(追記

先々週、ミルトン『言論・出版の自由』を図書館で借りてきた。
本編のほうは、昔読んだことがあり、相変わらず感心したのだけど、併せて掲載されている『自由共和国建設論』に関しては記憶が曖昧だったため、じっくりと、何度も何度も読み返した。ここには、いまだからこそ思うことが幾つかある。


〈(筆者注:大事な協議において、投票の)数には徳の力はない。重みと尺度のすべてに働くのは英知である〉
〈選挙するにふさわしい人々と選挙され統治するにふさわしい人々(筆者注:英知ある人々)をつくるには、現在の腐敗し欠陥のある教育を改めなければならない。人々に有徳の信念、節操、謙虚、謹厳、倹約、正義を教えることである〉
〈そうすれば国民が議会に選ばれた人たちを信用しなくなることはなくなり(略)われわれの自由の守り手と呼ばれるであろう〉〉


これらミルトンの喝破には説得力がある。
けど、彼の語る「徳」や「英知」っていうのは「神」を絶対君主とする「自然法」に基づくものであって、広く「神が死んで」しまった現代において、我々は一体何を根拠に「徳」を設定すればいいのだろう。
それは、少なくとも「空気を読む」ことや、ネット上でマスコミを画一的に「マスゴミ」と呼ぶことではないだろう。個人レベルで教示するだけならば〈貴方にとっての良い書物/音楽を理性的に読み聴きしなさい〉でオッケーなのだろうが、広く統一されたレベルで「教育」を行う際に必要となる教材なんかのバランスが難しいよね。

個人的にそれは「情報化社会」を生き抜くためのリテラシー(識字能力)教育の問題とも繋がってくるのではないかと思ったり。ウェブを完全に有意義に使いこなせる人(そんな人はいないだろうけどw)は「有徳」である、ということにならないだろうか。
〈ウェブを完全に有意義に使いこなせる〉ことと〈ウェブが発する情報を完全に網羅/判断できる〉ことはもちろん別だけど(後者だと、それこそ「神」だしww)、前者を「ほとんど完全に」と言い換えたとき、それでも実現可能性はあるのかな? あるいはそう「教育」できる可能性は? この論文を題材にして、ウェブ論壇の人たち(津田大介荻上チキ、白田秀彰松沢呉一梅田望夫あたりには是非ww)がやり合う企画とかあれば面白そうだ。

ただ一つ確実に言えることは、より良い「知」や「理性」の「ありかた/使い方」について意識していく第一歩として、本論は最適かつ最高の読み物である、ということ。自らを高めていきたい人であれば、なんかしらの手がかりを得ることができる読み物だということ。

『言論・出版の自由』ともども、この本はやっぱり名著ですね。

言論・出版の自由―アレオパジティカ 他一篇 (岩波文庫)

言論・出版の自由―アレオパジティカ 他一篇 (岩波文庫)


追記)〈ウェブを完全に有意義に使いこなせる=有徳〉とだけ書くと拒絶反応を起こしてしまう人もいると思うので補足。
現在、世界中の「知」と自己を最も効率よく同化(知の収集)させ、異化(知の発現)させられるシステムは、まちがいなくウェブです。それはミルトン時代における「神」のように、「知」を選択する「自由」「理性」を与えてくれる存在であり、ミルトンの持論に拠れば、これをうまく使いこなせることこそが「有徳」であることになるわけです。
だから、〈ウェブを使いこなせる=有徳である〉というのは言葉の綾に過ぎず、実際は〈ウェブ上の他者(知)をよく知る=有徳である〉といった感じになります。これは一昔前であれば〈書物を多く読む=有徳である〉と語られていたであろう論理の模様替えに過ぎません。