『銀河』と「ゼロ年代」〜志村正彦追悼と「ゼロ年代」葬送のために〜(前編)

イントロダクション

2009年12月25日。クリスマスの狂騒と年の瀬の狂騒が混じり合い、街が幸福で溢れかえっていたこの日、一つの悲しいニュースが、日本中のロック・ファンを襲った。
フジファブリック志村正彦、死去。公式発表によると、原因不明の病による病死だという。
このニュースを受け取ったファン達は、ブログで、掲示板で、チャットで、幾つもの追悼メッセージを書き込み、思い思いにその悲しみを吐き出した。(筆者も追悼ラジオと称し、ネットラジオを放送した)

2000年に志村を中心に結成され、メンバーチェンジを経て04年にメジャー・デヴュー。〈フジファブリック〉というバンドは、その出自からしてまさに「ゼロ年代のバンド」と呼ぶべきバンドであった。
現在、改めて彼らの全楽曲を聴いてみると、その引き出しの多さに驚かされる。と、同時に、いかにフジファブリックがシーンを「牽引」してきたのかがよくわかる。
そこで、今回は「フジファブリック」の音楽に沿って、果たして日本のロックの「ゼロ年代」におけるメーンとはどういったシーンであったのか、また「フジファブリック」というバンドが、その中で、何を為し、また為そうとしていたのかについて、追悼の意を込めて、2回に渡って私個人の考察を述べていこうと思う。
少々長くなりそうだが、お付き合い頂ければ幸いである。




「ジャンル」と「ゴマカシ」の「80年代〜90年代」

本文章の中心となる「ゼロ年代」を語る前に、今日は、そこに相対するものとして80年代〜90年代の日本の(あるいは世界の)ロックシーンが、一体どういったものであったのかについて説明しておこうと思う。


ポップ・パンク、ハードコア・パンク、メロディック・ハードコア、インディー・ロック、ニューウェイヴ、ネオアコ、ローファイ、オルタナポスト・ロック……、現在ありとあらゆるバンドがこういった「ジャンル」に分類され、その「ジャンル」に沿った語られかたをしているのは周知の事実であろう。実は、上記したような「ジャンル」は、その殆どが80年代から90年代にかけて誕生、あるいは確立したものである。
この頃、世界規模で「ロックンロール」という「神話」はとうに崩壊しており、更に、その崩壊を象徴する存在であった「パンク・ロック」も、徐々にパワー・ダウンし始めていた。
空虚な時代の到来を恐れた当時のロック・シーンは、無理矢理といっても良いような「ジャンル」を次々に考案し、現場で活動するバンド達に与えていった。それによって一応の「活気」がシーンにもたらされ、「ロック」(当時、既に「ロックンロール」という言葉は半無効化し、そこに準ずるありとあらゆるサウンドは「ロック」と呼ばれるようになっていた)は息も絶え絶えながら生き延びてきたわけである。これを本文章中では〈「ジャンル」の時代としての80年代〜90年代観〉と呼ぶことにする。


他方で、上記したような「ジャンル」を軸にしながらも、独特の感性でもって自分達の「物語」を紡ぎ出すバンドが存在した。彼らは単に「実験音楽」や「サイケデリック」といったレベルのものではなく*1、〈「自分達の文脈に「ジャンル」を摺り寄せる」形で音楽をやること〉に成功していたのである。

さて、ここで視点を日本に移してみよう。

日本が世界に誇れるバンドの一つに「ボアダムス」というバンドがいる。
過激なパフォーマンスを売りにしていた80年代パンクバンド「ハナタラシ」のヴォーカルEYEにより結成されたこのバンドは、ノイズ・ミュージック的なものを軸に、サイケデリック/トランスの浮遊感を多く盛り込んだ音楽性もさることながら、そのメンバーの移り変わりの多さ、そして07年にニューヨークで行われた、77台のドラムによるライブイベント『77 BOADRUM』など「活動そのもの(事件性)」の奇抜さにも定評があるバンドである。
彼らの面白いところは、そういった多くの「要素」によって構成されている「ボアダムス」というネームそのものにある種の「物語」が存在することである。例えば「関西ゼロ世代」という、ゼロ年代に関西で活躍するバンド達を呼称する言葉があるが、他方で彼らは「ボアダムスの子ども達」などと紹介されていたりもする。これは「父」としての「ボアダムス」、という強力な「物語」がそこになければありえない現象である。*2
あるいは「少年ナイフ」というバンドがいる。81年に結成された彼女達もまた、その本格的な音楽センスに惹きつけられたNIRVANAによって、シークレット・ライブでカヴァーされるなど、「音楽性」+「活動そのもの」のイコールによって、一つの「物語」を内包し得た存在であるといえる。


だが、日本のゼロ年代ロック・シーンのメーン・ストリームへの影響という意味で、時期的に最も強烈だったのは「ゆらゆら帝国」と「NUMBER GIRL」(以下、ナンバガ)の存在ではないだろうか。
特に、この二つのバンドのうちでも「ジャンル観」のハッキリしていたゆらゆら帝国に比べて、ナンバガの持つ「物語」は、本稿においてより重要なものである。
ヴォーカル向井秀徳の呼びかけで結成された「ナンバガ」は、ファジーでありながら突然刺してくる、なんとも形容しがたいギターと、縦横無尽に叩き込まれるテクニカルなドラム、そして、それまでの「ロック・ヴォーカリスト像」をあからさまに覆してみせた向井のヴォーカル・スタイルおよびルックスがウケ、東芝EMIからデビューするや否やその人気を不動のものとした。

(NUMBER GIRL/タッチ)

くるりスーパーカーなどの実力派バンドと共に「98年組」などと称されることも多い彼らは、その「ジャンル」としての曖昧さ*3も手伝って、初めから多分に「物語」を含んでいた。
そして、その影響は、特に私達リスナー自身の彼らの歌詞世界に接する際の態度から確認することが出来る。
3rd.アルバム『SAPPUKEI』から『Abstract Truth』という曲を紹介しよう

この曲において、歌詞はまともな文脈を一切失っている。
その全貌といえば、ただひたすら「単語レベル」で〈一升瓶〉や〈禅問答〉〈JAZZ MASTER〉などの単語を反復させた後、
〈答えは求めない 先生、狂ったオレですか?
 答えを求めるな 本質なんてどこにもない
 わかった気がした 
 先生 あなたは一体どこの誰ですか? 
 先生 安直な答えを出してもらっちゃ困る
 先生 あなたは誰ですか 
 先生 お前は誰ですか 
 先生 貴様は誰なんだ〉
と盛り上がっていき、そのままサウンドと共に爆ぜるように終了してしまう、ただそれだけである。

上で紹介した『タッチ』における詞世界などは、まだまだ〈少しイカレた青春〉的な文脈で、「独立」したものとして読むことが出来そうだが、『Abstract Truth』に関しては多少文章のようになっている後半部分でさえ〈先生〉という謎の人物の急襲によって〈なんのこっちゃわからん〉ことになってしまっている。
言ってしまえば、この『Abstract Truth』には、「世界」と呼べそうなものが〈それだけでは「何もない」〉。
言い方を変えれば〈「ヒント」がなければ絶対に読み取れないようになっている〉のである。

では、その「ヒント」とは一体何なのか?
それがつまり、「ナンバガ」という「物語」なのである。
向井秀徳が日本酒を呑みながら鍋をすることに並々ならぬ愛情を注いでいることを知っていれば〈一升瓶〉というフレーズは一気に「文脈」を持ち始める。〈禅問答〉も、彼がよく歌詞に使うフレーズ(「諸行無常」や「性的衝動」などはその代表例)と似たような「雰囲気」を纏っているし、〈JAZZ MASTER〉に至ってはギタリスト田渕ひさ子が愛用するギターの名称である。
つまり、前半部分の意味不明な「単語」の反復は、「ナンバガ」という「物語」をフィルターとして間に置ける者のみが(感覚的だが、妙にハッキリとした)「理解」出来るものなのだ。
そして、前半部において、一定の「理解」を持ったリスナーは、そのまま後半部分の〈先生〉も、そこから始まる「狂い」の感覚も、全て同様に「理解」出来てしまうのである。


こういった〈リスナー側の「認識」によって成立する「物語」〉の強度に関して言えば、ナンバガボアダムス少年ナイフ以上の「強度」を持っている。あえて語弊を生みそうな言い方をするならば、彼らは「ゴマカシ」が非常に巧いバンドであったのだ。だが、その「ゴマカシ」は決して悪い意味で使われるワードではなく、それはむしろ、「想像を共有させる技術/個性」という面で、彼らが一際優れていたことを示すワードとしてある。そして、そのやり方は、ある程度の変奏は行われていても、ボアダムス少年ナイフが提示してきた「やり方」の延長線上にあるものでもあるのだ。
これを、本文章中では〈「ゴマカシ」としての80年代〜90年代観〉と呼ぼう。


「80年代〜90年代」における(ここでは特に日本の)ロック・シーンは「ジャンル」と「ゴマカシ」によって成り立っていた、というのが、ここでの結論である。


さて、そういった歴史を踏まえたうえで、明日はいよいよ「ゼロ年代」について、そして「フジファブリック」というバンドがそこで為したことについて見ていこうと思う。楽しみに待っていていただけると幸いである。


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*1:ここでいう「実験音楽」は、むしろ90年代初頭には「ジャンル化」していたと言えるだろう。

*2:ここでの「父性」は、「はっぴぃえんど」が持つそれとは異なっている。何故なら、「はっぴぃえんど」の「父性」とは、あくまで〈日本にロックを根付かせた〉という意味での「父性」に過ぎず、バンドそのものでなく時代そのものが「父性」として語られているからだ。

*3:主にオルタナと呼ばれることが多いが、そのキャリアを通じて、一貫して「オルタナ的」であったか、と問われると、決してそうではない。私自身、彼らの音楽はグランジにも分類できると認識している。


SAPPUKEI

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