「ネタ」か「ベタ」か、あるいはネットにおける人格攻撃について

どうもです、ですますです。

インターネットの世界には「ネタ」と「ベタ」の問題がある。
「ネタ」とは、ここでは「実際の思いとは関係のないことを、場の要請に従って発言し、周囲にツッコミなどの反応を促すことで、一つの「パターン」を形成する行為」のことを指す。
対して「ベタ」とは、言い換えれば「本気=マジ」な発言、行動一般のことを言う。
思えば、この対立するやり方、その間を延々反復し続けることで、インターネットの世界における「常識/非常識」は変化してきた。

例えば「にちゃんねる」のVIP板などにおいて、その様を明確に確認することが出来る。
「携帯厨氏ね」という「ベタ」な発言に端を発し、「携帯厨、ちょっと来いよwwwww」と「ネタ」的に携帯から板を利用している人専用のスレが生まれる。その「ネタ」がいつしか、KY(便宜上、そう呼ぶ)な人々の中で「ベタ」化していき、気が付けば、本気で「携帯厨」の権利を叫ぶ人間が現れる。他方、そのベタ化を快く思わない多くの「住人」によって、結構「ベタ」なレベルでの「携帯叩き」が開始され、そこから妙な議論が始まることも最近では少なくない。あるいはやっぱり「ネタ」として「携帯厨で何が悪いの?」といったスレが立てられていたりもする。
こうして、「ネタ」と「ベタ」を反復することで、少なくとも現段階では「VIPに携帯から参加するのはどうもなぁ」というのが「常識」としてあるようだ。もっとも、その風潮すら、いずれ「ネタ」化され、真逆の意見が「ベタ」となる可能性も小さくない。(あるいは、すでに「なっている」?)
他にも、「犯罪予告」に対する「ネタ的/ベタ的」な書き込みが多く見られたことは記憶に新しい。

さて、「ネタとベタ」という概念の面白いところは、受け取り側の意識次第で、「ネタ」が「ベタ」に、「ベタ」が「ネタ」に、いくらでも変化する(=誤配されうる)ことだろう。
もちろん、これは、あらゆるテクストに言えることではある。
だが、インターネットのサイト(特に掲示板)のように、明確な支配者がおらず(管理人が定めたルールなどは場合によっては簡単に無視/改竄されてしまう)、大雑把かつあやふやな「流れ」しか存在しない場所であれば、ほんの数人、文章主の本意とは違った受け取り方をした人が現れる(=KYが現れる)だけで、その「流れ」に大きな「変化」が生じるケースだってある。誰だって、そう頻繁に「変化」が起きてしまったら疲れてしまう。
その疲弊を嫌うからこそ、フリーダムさを売りにしている、あのVIP板でさえ、そういった反抗分子は全力で「叩かれ」てしまうのである。そうしてネットの世界は、各々の場所の安定を図ってきたのである。

そして、そのことは、必然的に、明らかに「ネタ」である、あるいは「ネタ」か「ベタ」か分かりにくい文章に対する反論が、必ず「ネタ」レベルでしか行えないことを、場所の利用者に強制することにも繋がってくる。
上にも書いたが、大多数が「ネタ」だと思っている文章を、「ベタ」に受け取って「ベタ」に便乗すると、叩かれる。
これが、極端な話(ここではVIPばかりを例に出すことになってしまうが)「殺人はいけないことだよね。最低だよね」という(そのあまりの常識性ゆえに)「ネタ」とも「ベタ」とも捉え難い「ネタ/ベタ」を「ネタ化」し、「人殺し万歳www」というスレに繋げた場合、住人の大多数は、それを「ネタ」として受け取り、決して大きな「叩き」には発展させないだろう。もしくは、いくら「ベタ」な「人を殺したい」という想いがそこにあったとしても、あくまで「ネタ」を気取って書き込むことで、これまた「一切お咎めなし」の状態に落ち着くことが出来るわけだ。
いずれにせよ、インターネット上のあらゆる場所(もちろん、学術的であったり、プライベートに密接していたり、サイト自体が大きな「善意」により作成されていたり、そういった場所は除く)において、「ネタかベタか」といった問題は、そういう意味でとても重要なのだ。そこで取り違いをしてしまえば、一気に迫害され、その場所から締め出されてしまう。
そして、厄介なことに、ネット上の情報(=文章)は「ネタ/ベタ」の判別が難しい。何故なら、それはとても「匿名性」が強く、その人の実際の「意図=思想」を、その文章から判断することは出来ないからだ。
さっき、そういった文章への反論は「ネタ」レベルでしか行えない、と書いたが、言い方を変えれば、「ネタ/ベタ」の判別が出来ない以上、それに対して「ベタ」レベルでの反論は「してはいけない」のだ。何故なら、それはそのまま反論主にとっての不利益に繋がるし、文章主にしてみれば一種の「理不尽」となってしまう可能性すらあるのだから。