若者の「場所=正当性保証」としての「なんとなく殺人」を考える

どうもです ですますです

30日午前7時20分ごろ、栃木県足利市葉鹿町の弁当店「ほっともっと足利葉鹿店」で、18歳のパートの少年が、28歳の同僚女性を刺す事件が起きた。幸い女性の命には別条はなかったようだが、ここでやはり注目されているのは「(女性店員のことが)面白くなかったから刺した」と当然のように供述している少年の倫理観、ひいてはあの、手垢にまみれた「ティーンエイジの倫理観」という問題だろう。

毎日、毎日、犯罪は起きる。
少年犯罪の割合は、実際それほど増えているわけじゃないが、ちょっとしたムーブメントとして「なんとなく」行われる少年犯罪が年々増えているのは確かだ。
いや、「発見」されてしまった、というべきか。

思うに、このような現状を踏まえたとき、もはやある種の若者達の間で「なんとなく殺人」(今回の少年のケースも、結局はこの場合と同じといって良い)は、決して不可解なものではなく、むしろ、非常に真っ当な、正当性が保証された動機として、彼らはその言葉を使っているのではないかと思えてならない。
つまり、「なんとなく殺人」の増加は、メディアが繰り返し報道する「なんとなく殺人」の加害者少年達によって(=メディアの操作性によって)紡がれる「なんとなくやった」「(毎日が/人間関係が)つまらないので殺した」というキーワードが、これまで彼らの(そして、僕らの?)なかにくすぶっていた他者/自分以外への破壊衝動を、はっきり言語化させたことが原因なのだ。
言語化されたことによって、これまで異常だと思って/われていたその衝動が、普遍的なレベルであったこと/になってしまったことに驚いた少年達が、(実際の動機を一足飛びし)「なんとなく」「つまらないから」人を殺すことを実践しようと試みるのは、常に「場所」を求めて続けている「人間性」に即した、ある意味、非常にアクチュアルな行動であると言えるのだ。

もちろん、アクチュアルな行動であることと、「常識的」であるか否かは無関係だ。
だが、宮台真司的な言い方をすれば「底が抜けた=ぼんやりとした常識が欠如した」状態であるこの社会において(註:「底が抜けていない」社会などない、と宮台は語り、だからこそ世界は常に「普遍性」の維持に対して苦悩してきたとも言っているので、この書き方は正確ではないが)少年達は、決して不自然な状態に生きているわけではない。少年達が、自分達を「底が抜けた」社会の代弁者として、パフォーマティヴなレベルで殺人をしている、とは決して思わないが、それが図らずもパフォーマティヴに「なってしまった」その意味を、「底が抜けている」ことに気付くヒントとして、メディアは世間に問うべきである。あるいは、彼らがパフォーマティヴに「なんとなく」人を殺さなければいけなかった、その意味を。

それは、究極的には「倫理観の再構築」という国家教育レベルの問題になるのだろうが、国家をもってしても、犯罪の後追い的なやり方(起きたことに対処するようなやり方)では「再構築」は難しい。あまりにレベルの低いリベラリズムに溢れ、それらがもはや「隠れツリー化」の様相をも呈してきている、現在のネット社会において、あるいはそういった立ち位置からネットを「一般以上の理解度」で使用出来る若者が増えているこの時代において、強制的/であろうとするような国家は「叩か」れ、草を生やされ、プギャーされるだけだろう。仮に、一度は再構築に成功したように見えても、いずれその若者達が参政権を得たとき、すぐにまた構築し直されてしまう。終わりなきシーソーゲームの始まりがそこで宣言されてしまうはずである。
あくまで「理論−実践」的に(これまた宮台的物言いだが)、義務教育*1の段階で(それもかなり早期段階において)我々は「普遍性」が「普遍性」たりうる意義と意味を、「底が抜けた」ことに気付きながらも、だからこそ表出してくる「人間性そのもの」の「場所=正当性保証」としての尊さを、現代のティーンエイジに、あるいは我々の子の世代に、伝えていかなければならないのではないだろうか。

と、適当な〆かただけど、これでいいんだろうか…w

ま、いいや!
ですますですた!


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*1 もちろん、そこではネットを介在させた教育も行うべきだろうとは思う