前島賢『セカイ系とは何か―ポスト・エヴァのオタク史―』読後感想

セカイ系」という言葉が、一つの定義のなかに「まとめきれない」という事実を、ありのままに「まとめきった」力作。新たな知識を得る感動だけではなく、近年なかなか味わえない熱意への感動が本書にはある。ただ、こういった書物は、自然と感想もまとまりにくくなるわけで……。

というわけで、とりあえず、本書のラスト部分、これからのオタク文化の展望を著者なりに予測した部分について(本筋とは無関係な部分ながら)感想を。

自分は、例えば『初音ミク』を二次創作する際に、制作者/消費者の間で〈なんでミクじゃなきゃいけないのだろう/俺達は何故ミクを求めてるんだろう〉という「問い」が忘れ去られている事実について、常に苛立っていた。某スレでやったラジオ内で、そのことをやや愚痴っぽく語ったりしたこともある。

そして、前島もまた、その問題について触れている。
例えば『東方Project』については〈原作者ZUNによる設定とファンによる二次創作設定の境界がきわめて曖昧であり〉〈ファンはおそらく厳密な設定を期待していない〉とする。そのうえで〈そもそもZUNはキャラクターの同一性へのこだわりが薄く〉〈二次創作の作り手にしても、物語を書く際には、そうした設定の記述の束から取捨選択してキャラクターを描〉く、といった東浩紀の提唱する「データベース消費」的な作品消費のされかたが『東方』に存在することを指摘。

あるいは初音ミクについて〈極論すれば、ニコニコ動画によって作られたキャラクター〉であるとし、〈ニコニコ動画で起きているのは、言わば、作者不在の創作という事態であ〉り、〈(引用者注:セカイ系的な)自意識どころか、作品、作家という論点自体が消失しつつある〉とまとめている。

そういった「自意識」的な(あるいは記名作家の命題だった、ともいえる)問いや苦悩の「不在」について、自分は、ただ難癖をつけ〈そんな態度でミクの二次創作を生産/消費するくらいなら、何もしないほうがまだマシじゃね?〉とか思っていたわけだ。

だが、前島は、それでも〈必ずどこかから自意識の問いは生まれてくるはずである〉と「希望」を発している。自分より5歳以上年上である彼の言説のその眩しさに、なんというかもう、自省を促された気持ちでした。

「ミク」のようなほぼ公式設定のないキャラを、なんにでも適応しそうなストーリーに乗せただけで「ミク」の二次創作だ、と称したがる奇妙さ。またそれを「ミク」の二次創作として当然のように受け取る消費者の奇妙さ。(注1)
そういった全ての奇妙な「承認」の在り方について自問自答する作家が出てきたとすれば……それは最高に楽しいことになりそうだ


セカイ系とは何か (ソフトバンク新書)

セカイ系とは何か (ソフトバンク新書)

(注1)例えばミクにおける「ネギ好き」なキャラ設定など、その必然性は一切説明されていない(される必要もない)。だが、それでもミクじゃなければ、あの「ネギ」のインパクトは存在しえなかった(ように現在では思える)。それは、そういった設定の付与が、もはや「一次創作」並みの強さをもって行われているからに他ならないわけで、逆説的に「ネギ好き」という設定そのものは、別に初音ミクじゃなくとも、どんなオリジナルキャラクターに付与されてもおかしくなかったものだった、ということになる。